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東京2020オリンピック「直前企画」
オリンピックにおける「ソフトボール競技」戦いの軌跡
第5回 2004年アテネ・オリンピック(前編:「世界一」ならずも準優勝でオリンピック出場権獲得)

2001年7月、「第10回世界女子選手権大会」アジア地区予選が大阪で開催された

アジア地区予選を制し、名実ともに「アジアNo.1」チームとして世界選手権へ!

2002年7月、「第10回世界女子選手権大会」がカナダ・サレーで開幕!

大会は「王者」アメリカと日本の「2強対決」「一騎打ち」の図式となった

アテネ・オリンピック出場権をかけた中国戦で「完全試合」を達成した上野由岐子

日本は決勝で敗れ、アメリカが世界選手権「5連覇」を達成!

日本は惜しくも準優勝。1970年以来の「王座返り咲き」はならなかった

釜山・アジア大会で「初」の金メダル獲得! 次なる目標はオリンピックの「金メダル」だ!!

 2000年秋、日本ソフトボール協会選手強化本部会は「宇津木ヘッドコーチ続投」の方針を打ち出し、11月16日に行われた「平成12年度第4回理事会」に提案。全会一致でこれが承認され、宇津木妙子ヘッドコーチ(現・日本ソフトボール協会副会長)のアテネ・オリンピックまでの「続投」が決まった。
 2001年7月には、2002年に開催される「第10回世界女子選手権大会」のアジア地区予選が大阪で行われることがすでに決まっていたこともあり、この予選で本大会への出場権を獲得することを「当面の目標」とし、「新たなスタート」が切られた。

 2001年2月18日~21日、静岡県天城湯ヶ島町(現・静岡県伊豆市)で選考会を実施。シドニーでの反省・問題点を踏まえた上で、アテネへ向けての新たなチーム作りが本格的にはじまり、30名の「代表候補選手」を選出。そこには、シドニーでの銀メダリストたちに加え、上野由岐子を筆頭とする「次代を担う期待の若手」の名前も見られた。
 また、この年、日本ソフトボール協会はジュニア世代と代表チームをつなぐ「中間世代」の強化のためのカテゴリーを創設し(U23/23歳以下を対象とした代表チーム)、日本代表を「頂点」とした、さらなる「強化システム」の構築に乗り出した。
 この選考会で選出された30名は、2001年度の「強化指定選手」とし、ここからアジア地区予選に臨む代表選手17名を選出。その選から漏れた強化指定選手は代表のバックアップチーム的な役割を果たしながら、さらに「その先」を見据えた強化の対象として強化合宿や海外遠征などを行う方針が打ち出された。
 この後、6月に「第2次国内強化合宿」を実施し、ハワイ・ホノルルで開催された「USカップ」に1チーム、カナダ・サレーで開催された「カナダカップ」に2チームを派遣することを決定。長期的な計画に基づいた効果的・効率的な選手強化策が徐々に形となっていった。
 アメリカ、オーストラリア、中国、そして日本と「世界の4強」が集まった「USカップ」(ハワイ・ホノルル/6月21日~24日)では若手主体のメンバーで臨み、最下位という成績に終わってしまったが、紅白2チーム編成で臨んだ「カナダカップ」(カナダ・サレー/6月30日~7月8日)では、アメリカ、オーストラリア、カナダ、オランダ、チェコ、イタリアなどを蹴散らし、日本紅チームが優勝。白チームも4位に入るという堂々たる成績を残し、いよいよ世界選手権アジア地区予選を迎えた。

 7月25日、酷暑の大阪・舞洲ベースボールスタジアム(現・大阪シティ信用金庫スタジアム)で「第10回世界女子選手権大会アジア地区予選」(第10回世界女子選手権大会アジア地区予選出場メンバーはこちら)が開幕。大会には、中国、チャイニーズ・タイペイ、韓国、北朝鮮、フィリピン、日本の6チームが参加。上位3チームに与えられる世界選手権本大会への出場権をかけた戦いがはじまった。
 日本は、予選リーグを5戦全勝の1位で通過し、世界選手権の出場権を獲得。まずは「最低限の目標」を達成すると、決勝トーナメントの初戦で中国に敗れはしたものの、「敗者復活戦」でチャイニーズ・タイペイを3-0で下し、決勝で中国と再戦。1点を先制されたものの、主砲・宇津木麗華(現・日本代表ヘッドコーチ)、ベテラン・山路典子(現・日本代表コーチ)の本塁打、キャプテン・山田美葉のタイムリーなどで4-2の逆転勝ち。名実ともに「アジアNo.1」のチームとして世界選手権へ臨むことになった。
 このアジア地区予選のテーマは、「ベテランと若手の融合」であった。投手陣では、シドニー組の髙山樹里、増淵まり子の出番がないほど、上野由岐子、坂井寛子が活躍。打線でも、山田美葉、伊藤良恵、内藤恵美が貴重な働きでチームを引っ張り、確実な成長を感じさせてくれた。「代わりはいくらでもいる」「結果を残さなければ生き残れない」と競争意識と危機感がチームを活性化させ、より高いレベルへチームを引き上げた。
 しかし、決勝では宇津木麗華や山路典子らが「さすが!」の存在感を見せつけ、オリンピック銀メダルの「実績」はダテではなく、今後さらに若い新たな力とベテランの知識・技術・経験を融合・熟成させ、チームを「完成形」へ導いていくかがカギとなった。
 試合後の記者会見では、宇津木妙子ヘッドコーチが「来年の世界選手権では優勝を狙います」とキッパリと「優勝宣言」。アジア予選「快勝」の余韻に浸っているのでもなく、詰めかけた報道陣へのリップサービスでもなく、ごくごく自然に口をついたこの「優勝宣言」が、何よりもこの戦いで得た確かな「手応え」を感じさせた。

 2001年11月18日~19日、アメリカ・フロリダ州タンパで開催された「第20回ISF(国際ソフトボール連盟/現・WBSC:世界野球ソフトボール連盟)」総会でいくつかの「ルール改正」が行われた。
 このルール改正により、投球距離(ホームベースからピッチャープレートまでの距離)が従来の12.19mから13.11mに延長され、ホームベースから外野フェンスまでの距離も60.96mから67.06mに延長された。また、従来のDH(指名打者)がDP(指名選手)に改正され、DHの「打つだけ」で「スターティングメンバーであっても再出場はできない」という制約が外され、DPは「守備につくこともできる」し、「スターティングメンバーであれば一度に限り再出場できる」となり、投手でありながらバッティングもよく、他のポジションもこなせるリサ・フェルナンデス(1998年・1999年の2シーズン、日本リーグ・トヨタ自動車でプレー)、ミッシェル・スミス(1993年~2008年、日本リーグ・豊田自動織機でプレー)らの「投打二刀流」を揃える「アメリカに有利なルール改正」といわれ、このルール改正は「日本には不利」なルール改正であり、「シドニー・オリンピックで躍進した露骨な日本潰しではないか」の声も聞かれた。
 7月に開催される世界選手権へ向け、まず年明け早々の1月20日~30日、台湾・高雄、台北で強化合宿を張り、基礎体力の増強と基本技術の再確認を徹底して行った。この台湾合宿は、別名「地獄の合宿」と形容され、選手たちを身体的にも精神的にも限界ギリギリまで追い込む猛練習が課せられた。
 2月15日~26日、オーストラリア・メルボルンに遠征。ビクトリア州選抜と2試合、オーストラリア代表チームと6試合、初めて「新しいルール」のもとで試合を行い、7勝1敗と順調な結果を残した。
 オーストラリアから帰国すると、3月5日~12日、沖縄県北谷町で「第4次国内強化合宿」。この合宿から浦野光史氏がコーチとしてチームに加わった。浦野光史コーチは現役時代、ピッチャーとして男子の「日本代表」に名を連ね、世界選手権に出場した経歴を持ち、実体験に裏付けされた投手心理・打者心理を踏まえた駆け引きや投球の組み立て、狙い球の絞り方など、実戦に即した指導に期待が集まった。
 3月22日~27日、「第5次国内強化合宿」を静岡県天城湯ヶ島町で実施。第4次、第5次の強化合宿では男子のピッチャーを相手に諸外国のピッチャーを想定しながら入念に打ち込みを行い、男子チームとの練習試合を数多くこなした。

 新年度となった4月、日本ソフトボール協会の役員改選が行われ、黒木幹夫会長が勇退(名誉会長に就任)。代わって山﨑拓氏が会長に就任。尾﨑正則専務理事、艸田聰選手強化本部長が新たに就任し、新体制でスタートを切った。
 4月4日~9日、「第1次国内強化合宿」を静岡県天城湯ヶ島町で実施。早速、尾﨑正則専務理事、艸田聰選手強化本部長が合宿に駆けつけ、選手たちを激励した。
 4月24日の選手強化本部会は世界選手権へ派遣する代表17名の「最終選考」を行い、5月12日の「平成14年度第2回理事会」に提案。正式に承認を受け、翌13日に東京・渋谷の岸記念体育会館で記者発表を行った。
 記者発表には日本ソフトボール協会・尾﨑正則専務理事、同艸田聰選手強化本部長、宇津木妙子ヘッドコーチ、キャプテンの宇津木麗華、副キャプテンの安藤美佐子、ピッチャーの上野由岐子が出席した。
 記者会見冒頭、尾﨑正則専務理事が挨拶に立ち、「この世界選手権はアテネ・オリンピックの第1次予選を兼ねており、上位4チームにはアテネ・オリンピックの出場権が与えられる。オリンピック出場権獲得はもちろん、この大会で優勝し、アテネ・オリンピックで金メダルを手にするためのステップとしたい」と力強く優勝宣言。大会での必勝を誓い、続いて艸田聰選手強化本部長が代表17名の名前を一人ひとり読み上げ、大会に臨む代表選手17名が発表された(第10回世界女子選手権大会出場メンバーはこちら)。

 6月9日~15日、静岡県天城湯ヶ島町で「第2次国内強化合宿」を実施。この「第2次国内強化合宿」では、JISS(国立スポーツ科学センター)の協力もあり、特に投手陣を中心に強力なサポート体制が敷かれた。球速をスピードガンで計測し、登板前・登板後の握力の変化や心拍数の変化を微細に記録・分析。従来個々の主観や感覚に頼らざるをえなかった部分にまで踏み込み、それを客観的に定量化するという新しい試みが行われた。

 日本代表は、7月2日に日本を発ち、最初の目的地・ハワイへ。時差調整もそこそこに「USカップ」に出場。アメリカ、オーストラリア、中国、カナダ、そして日本の5チームが参加。さながら世界選手権の「前哨戦」といった雰囲気で行われた大会で、日本は予選リーグの初戦で宿敵・アメリカを6-1で撃破。オーストラリアには4-3のサヨナラ勝ちを収め、中国に6-0、カナダに1-0と4連勝で決勝へ駒を進めた。決勝ではアメリカに0-1で敗れ、優勝はならなかったが、圧勝あり、サヨナラあり、タイブレークの粘り勝ちありと様々な試合展開を経験し、しかも決勝を除いてすべて勝ち切れたことは大会前の調整ということを考えれば大きな収穫であった。

 大会を終え、カナダ・サレーに移動。「カナダカップ」に出場している各国の状態をチェックし、7月20日に「決戦の地」サスカツーンに入り、最後の調整を行った。
 7月26日、世界選手権が開幕。大会には16チームが参加。これをシドニー・オリンピック、前回の世界選手権などの順位に基づいて2つのグループ(プール)に振り分け、プールAにはアメリカ、中国、イタリア、カナダ、チャイニーズ・タイペイ、ネザーランド・アンティルス(オランダ領アンティル)、チェコ、ロシアの8チームが、プールBには日本、オーストラリア、ニュージーランド、ドミニカ、ベネズエラ、オランダ、南アフリカ、プエルトリコの8チームがそれぞれ振り分けられた。
 まずはその各プールでシングルラウンドロビン(1回総当たり)方式の予選リーグを実施。各プールの上位4チームが決勝トーナメントへ駒を進め、ソフトボール独特のページシステム(敗者復活戦を含むトーナメント)で覇を競った。
 「予選リーグ・プールB」に振り分けられた日本は、初戦のニュージーランド戦が雨天順延となり、翌27日、「仕切り直し」となった「実質的な開幕戦」べネズエラ戦に7-0の6回コールド勝ち。翌28日に雨天順延されたニュージーランド戦が組み込まれ、ダブルヘッダーとなり、ニュージーランドに2-1、ドミニカに10-0と連勝。予選リーグ第4戦のオランダ戦は上野由岐子の力投で2-0の完封勝利を収め、続く南アフリカ戦は9-0の5回コールド勝ち。予選リーグ第6戦はオーストラリアとの「全勝対決」となり、山路典子の本塁打等で5-0と圧勝し、「全勝」を守ると、予選リーグ最終戦のプエルトリコ戦も15-0の4回コールド勝ち。「予選リーグ・プールB」を7戦全勝の1位で通過し、戦いの舞台はダブルページシステム(敗者復活戦を含むトーナメント)で行われる「決勝トーナメント」へと移された。

 決勝トーナメント初戦の相手は「予選リーグ・プールA」2位の中国。この中国戦に勝てばアテネ・オリンピックの出場権を手にすることになり、それが現実のものとなれば、「アテネ・オリンピック出場権獲得第1号」となるとあって、日本から大挙して報道陣が駆けつけた。その大勢の報道陣の目の前で先発・上野由岐子が「完全試合」を達成。「初回の三者三振で、今日は完全試合ができそうな気がした」と、アテネ・オリンピックの出場権がかかった「大一番」で、強豪・中国を向こうに回し、事も無げに「完全試合」の偉業を達成。あっさりとオリンピック出場権を手にした。
 8月3日、決勝トーナメント2日目・第3試合で予選リーグからここまで「負けなし」で勝ち上がった日本、アメリカの両チームがついに激突。日本は先発・坂井寛子が好投したが、打線が7回まで4度も得点圏に走者を送りながら攻め切れず……延長9回の死闘の末、0-1で敗れた。
 8月4日、大会最終日、日本はまず「ブロンズメダルゲーム」(3位決定戦)で「予選リーグ・プールA3位」から勝ち上がってきたチャイニーズ・タイペイと対戦。苦しみながらも2-1で振り切り、「宿敵」アメリカが待ち受ける「ゴールドメダルゲーム」(決勝)へと駒を進めたが、またしても0-1で惜敗。アメリカが「世界選手権5連覇」を成し遂げ、日本は1970年の「第2回大会」以来、久々の「王座返り咲き」はならなかった。

 世界選手権で優勝を逃すと、さらに「衝撃的」で「厳しい」現実が待ち受けていた。IOC(国際オリンピック委員会)プログラム委員会が、「野球、ソフトボール、近代五種」のオリンピック競技からの「除外」という方針を打ち出したのだ。
 オリンピック競技となったことで、メディアの注目度も増した。「4年に一度」のオリンピックが大きな目標となったことで、選手寿命は延び、オリンピックを夢見てソフトボールをはじめる選手も現れはじめた。ようやくここまできたのに……。世界選手権で勝つとか負けるとかいう「次元」を超越した衝撃的なニュースだった。

 日本ソフトボール協会では、山﨑拓会長、尾﨑正則専務理事らを中心に、ISF、JOC(日本オリンピック委員会)などと連携し、必死に各方面に「除外反対」を働きかけた。

 同じ頃(8月30日~9月1日)、「ファイテン 2002 JAPAN CUP 国際女子ソフトボール大会」が、日本ソフトボール協会と毎日新聞社の共催で開催された。この大会は「世界の4強」アメリカ、オーストラリア、中国、日本が一堂に会し、「真の世界一を決める」を掲げて創設された国際大会である。
 この大会では、JISS(国立スポーツ科学センター)の協力を得て、ハイスピードカメラを含むビデオ数台で様々な角度からアメリカの映像を押さえ、動作解析をはじめアメリカの投打の特徴、配球パターンとその偏り、ライズ、ドロップ、チェンジアップの際の握りの癖や投球フォームの違いなど、徹底的に洗い出し、分析を行った。この大会に登板のなかったリサ・フェルナンデスに関しては「ESPN」が放送した世界選手権ファイナルの画像を極秘裏に入手。これも分析の材料として活用した。
 結果は、オーストラリア、中国には完勝したものの、またしてもアメリカに予選リーグ、決勝トーナメントともに1点差で惜敗。この「善戦しては1点差負け」のお決まりの図式を打破すべく、この大会で得た膨大なデータの分析作業がはじまった。

 また、日本代表の強化と並行して、22歳以下の日本代表となる「育成チーム」を創設。7月4日~7日、静岡県天城湯ヶ島町で選考強化合宿を実施。指導スタッフも監督に田中大鉄氏、コーチに吉野みね子氏、磯野稔氏の就任が決まり、JOCの提唱する「GOLD PLAN」に沿った一貫指導システムや選手育成システムの構築へ向け、また一歩前進した。
 さらに「JAPAN CUP」のために来日したアメリカ、オーストラリア、中国の代表チームと「育成チーム」の対戦が実現するなど、日本代表をピラミッドの頂点とした強化への道筋がより明確なものとなり、「次代を担う選手たち」の育成・強化にも力が注がれた。

 9月30日、韓国・釜山で「第14回アジア競技大会」ソフトボール競技が開幕。大会には中国、チャイニーズ・タイペイ、韓国、北朝鮮、フィリピン、日本の6チームが参加。日本は世界選手権のメンバーから増淵まり子、前田樹里の2人の投手を除いた15名で大会に臨み、予選リーグでは1-0の辛勝が3試合と「本来の力」を発揮することができずにいたが、何とか4連勝。最終戦でアジア大会「3連覇」を継続中の中国を相手に、4本の長打を含む12安打で5点を奪い、北京、広島、バンコクと3大会連続で銀メダルに甘んじた鬱憤を一気に晴らすかのように打ちまくり、「アジアの盟主」として君臨してきた中国に大勝。5戦全勝の1位で決勝トーナメント進出を決めると、決勝トーナメントの初戦で予選リーグ2位のチャイニーズ・タイペイと対戦。15安打・10得点の猛攻で6回コールド勝ちを収め、初のアジア大会金メダルに「王手」をかけた。
 大会最終日は激しい雨……。アジア大会に予備日は設けられておらず、雨天でも順延されることはない。雨天中止はその時点で「競技の打ち切り」を意味しており、そこまでの順位で最終成績が決定される。
 天候はいっこうに回復する兆しを見せず、釜山アジア競技大会組織委員会、ASA-ASIA(現・ソフトボール・アジア)が下すという「最終決定」までの時間が、気が遠くなるほど長く感じられた。
 結局、雨のため競技は打ち切られ、日本の金メダルが確定した。試合を行わずに金メダルが決まってしまい、やや拍子抜け。「試合をやって、勝って、グラウンド上で金メダルの喜びを味わいたかった」というのが、チームスタッフ、選手の偽らざる本音であることは間違いなかったが、上野由岐子、坂井寛子、髙山樹里の投手陣は全試合無失点。「格の違い」すら感じさせる戦いで、予選リーグ前半戦こそ苦戦したが、大事な予選リーグ最終戦、中国戦では5-0、決勝トーナメントの台湾戦では10-0の6回コールドと圧倒的な勝ち方を見せていただけに「雨天中止」による「金メダル獲得」にも異論を挟む者はなかった。これで名実ともに「アジアの盟主」の座に就いた日本。残された目標は「打倒・アメリカ」と「アテネ・オリンピックでの金メダル獲得」のみとなった(中編へ続く)。

(公財)日本ソフトボール協会 広報
株式会社 日本体育社「JSAソフトボール」編集部 吉田 徹

2001年 第10回世界女子選手権大会アジア地区予選 出場メンバー・スタッフ

選手

No. 守備 氏名 所属 背番号
1 投手 髙山樹里 豊田自動織機 18
2 増淵まり子 デンソー 20
3 坂井寛子 戸田中央総合病院 21
4 上野由岐子 日立高崎 17
5 捕手 山路典子 太陽誘電 25
6 山田美葉 日立高崎 27
7 鈴木由香 日本体育大 10
8 内野手 伊藤良恵 日立高崎 19
9 宇津木麗華 日立高崎 28
10 安藤美佐子 松下電工 6
11 内藤恵美 豊田自動織機 4
12 三科真澄 日立高崎 3
13 外野手 伊藤幸子 トヨタ自動車 9
14 馬渕智子 日立ソフトウェア 29
15 斎藤春香 日立ソフトウェア 26
16 新井直美 太陽誘電 1
17 岩渕有美 日立高崎 7

※氏名、所属は大会出場当時のもの

スタッフ

No. 役職 氏名 所属
1 ヘッドコーチ 宇津木妙子 日立高崎
2 コーチ 松本直美 日立高崎
3 ドクター 小松裕 JR東京総合病院
4 トレーナー 金城充知 日本ソフトボール協会
5 トレーナー 佐瀬由紀子 日本ソフトボール協会
6 総務 藤井まり子 日本ソフトボール協会

※氏名、所属は大会出場当時のもの

2002年 第10回世界女子選手権大会 出場メンバー・スタッフ

選手

No. 守備 氏名 所属 背番号
1 投手 髙山樹里 豊田自動織機 18
2 増淵まり子 デンソー 20
3 坂井寛子 戸田中央総合病院 21
4 上野由岐子 日立高崎 17
5 前田樹里 日立高崎 23
6 捕手 山路典子 太陽誘電 25
7 鈴木由香 日本体育大 10
8 内野手 伊藤良恵 日立高崎 19
9 宇津木麗華 日立高崎 28
10 安藤美佐子 デンソー 6
11 内藤恵美 豊田自動織機 4
12 三科真澄 日立高崎 3
13 外野手 伊藤幸子 トヨタ自動車 9
14 田中幹子 ミキハウス 13
15 斎藤春香 日立ソフトウェア 26
16 新井直美 太陽誘電 1
17 岩渕有美 日立高崎 7

※氏名、所属は大会出場当時のもの

スタッフ

No. 役職 氏名 所属
1 団長 尾﨑正則 日本ソフトボール協会
2 ヘッドコーチ 宇津木妙子 日立高崎
3 コーチ 浦野光史 シオノギ製薬
4 ドクター 増島篤 東芝病院
5 トレーナー 金城充知 日立高崎
6 トレーナー 斎藤容子 日立高崎
7 トレーナー 鈴木勝 グルーバルスポーツ
8 総務 藤井まり子 日本ソフトボール協会
9 マネージャー 吉野弘美 日立高崎

※氏名、所属は大会出場当時のもの

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