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東京2020オリンピック「直前企画」
オリンピックにおける「ソフトボール競技」戦いの軌跡
第6回 2004年アテネ・オリンピック(中編:オリンピック競技「除外」の危機……思わぬ「敵」SARSとの戦い)

オリンピック競技からの「除外勧告」を受けるも、一度はその「危機」を回避したのだが……

「戦力になる可能性のある選手はもう一度この目で確かめたい」との宇津木妙子ヘッドコーチ方針で選手の入替が頻繁に

アテネ・オリンピックでの「金メダル獲得」をめざし、猛練習の日々……

JISS(国立スポーツ科学センター)の全面的な支援・協力を得て情報収集・戦力分析作業を進めた

当時・JISSから提供されていた分析資料のサンプル。球種とその映像・データが紐づけられていた

金メダル獲得の「最大の障壁」はアメリカ。その「攻略法」を見出し、導き出せ!

オーストラリアも侮れない相手。アメリカ相手に何度も「ミラクル」を起こしていた

「2003 JAPAN CUP」が代表デビューとなった山田恵里。この後、長く日本打線の中心となる

 2002年11月26日~29日、メキシコ・メキシコシティーで開催されたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、2008年に行われる北京オリンピックからの「野球、ソフトボール、近代五種の競技除外」問題が審議されたが、結論はアテネ・オリンピック後に「先送り」された。
 「競技除外決定」という最悪のシナリオこそ避けられはしたが、北京オリンピックでの除外、存続は「不透明」なまま……。一部には、IOC会長であるジャック・ロゲ氏をはじめとするヨーロッパを中心とした「除外派」が、アメリカ、日本、韓国らの「存続派」の巻き返しに合い、総会最終日を迎えて除外反対票が過半数を超える見通しとなったことから、採決による決着を避け、「玉虫色」の結論先送りを選択したとの見方もあったが、とりあえず「競技除外」の危機を乗り越え、「最悪の決定」だけは避けることができた。

 12月9日~11日、韓国・釜山での「第14回アジア競技大会」で「初」の金メダルを獲得したことを一つの「区切り」とし、改めて日本代表の「選考会」を実施。各都道府県支部協会を通じて公募を募り、JOC(日本オリンピック委員会)認定エリート15名、JOCユースエリート8名を含む54名が選考会に参加した。
 世界選手権銀メダル、釜山アジア大会での金メダルはもはや「過去のもの」と、今回の選考会ではいったんすべてを「白紙」に戻し、先入観を持つことなく、「打倒・アメリカ」「アテネ・オリンピック金メダル獲得」の目標達成へ向けた選手選考が実施された。
 12月18日、日本ソフトボール協会は、選手強化本部会を招集。その席上で37名の日本代表候補選手が選出され、翌19日、正式に発表された。この37名を強化のベースとし、アテネ・オリンピック金メダル獲得へ向けた本格的な強化がスタートした。

 2003年は2月10日~20日、台湾・高雄での海外強化合宿で幕を開けた。前年末の選考会で選び出した37名の日本代表候補選手のうち、25名をこの合宿に招集。「地獄の合宿」と異名を取るほどの猛練習で知られるこの台湾合宿で、トコトンまで選手たちを追い込んでいった。37名もの代表候補を選出することに強化本部会内でも異論がなかったわけではない。代表候補の枠を広げたため、前年ようやくスタートしたばかりの「育成チーム」が、このシーズンに関しては事実上機能しなくなるという「現実」にも直面した。
 それでも、宇津木妙子ヘッドコーチの「アテネ・オリンピックへ向けて、戦力になる可能性のある選手はすべて代表に招集し、自分自身の目でもう一度確認しておきたい」との強い要望もあり、ようやく立ち上げたばかりの「育成チーム」を白紙に戻すリスクを承知の上で、代表の強化を「最優先事項」とし、この一年を「セレクションイヤー」と位置づけ、強化合宿、海外遠征を繰り返しながら、アテネに向けた選手選考を行うことを決めたのである。
 その一方で、「USカップ」(6月19日~22日/ハワイ・ホノルル)、「カナダカップ」(7月5日~13日/カナダ・サレー)には37名の候補選手を2チームに分けてそれぞれ派遣し、「カナダカップ」に関しては「育成チーム」の延長上にあるチーム構成にし、「育成チーム」の指導スタッフがそのまま指揮を執り、この年の秋に開催される「第7回世界女子ジュニア選手権大会」に臨むジュニアチームとの「合同合宿」も組まれるなど、強化の継続性と次代の日本代表を担う選手の育成強化にも最大限の配慮を施しながら強化が進められた。
 3月5日~12日、「第4次国内強化合宿」。同月20日~25日、「第5次国内強化合宿」。さらに25日~28日、「第6次国内強化合宿」と矢継ぎ早に強化合宿を実施。少しずつ選手を入れ替えて合宿を行うことで、選手に「競争の原理」が働いた。「今回の合宿には招集されたが、次は呼ばれていない」「今回は招集されず、次には呼ばれている」という状態が続く選手たちに「危機感」が芽生えないわけがなかった。「もう代表に呼んでもらえないんじゃないか」と思えば、今まで以上の必死さで自分をアピールする。そこに「競争の原理」が働き、チームが活性化されていくという「好循環」を生んだ。

 しかし……「好事魔多し」との諺にあるとおり、「思わぬ敵」が現れた。SARS(新型肺炎/重症急性呼吸器症候群)の大流行である。まず5月31日~6月7日にフィリピン・マニラで開催が予定されていた「第7回アジア男子選手権大会」「第8回アジア女子選手権大会」の延期が決定。中国、台湾、香港を中心に猛威をふるい、5月はじめの時点で感染者は7000人に達しており、死亡者もすでに500人を超えるという状況であればそれも致し方のない決定であった。
 その後もSARSはいっこうに沈静化の気配を見せず、6月9日、日本ソフトボール協会選手強化本部会は、「USカップ」「カナダカップ」への日本代表の派遣中止を決定。代替強化事業として、「第1次国内強化合宿」(6月17日~26日/北海道倶知安町)、「第2次国内強化合宿」(7月3日~11日/静岡県天城湯ヶ島町/現・静岡県伊豆市)、「第3次強化国内合宿」(7月16日~23日/埼玉県吹上町)を行うことを正式に発表した。
 あえて37名もの候補選手を選び、実戦の中で選手選考を行っていくはずだった「セレクションイヤー」の構想は、大幅な修正を余儀なくされてしまった。オリンピック前年にできる限り、海外へ打って出て、「世界の強豪」を相手に戦いながら、個々の経験値をプラスし、その中からベストの布陣を選び出すことは不可能になった。
 「国際経験」を積む場を奪われてしまった日本は、ライバルとなる国々の情報を集め、分析し、オリンピックへの対策を練るしかない。JISS(国立スポーツ科学センター)の協力を得て、情報収集・戦力分析のためのクルーを編成し、各種国際大会へ派遣するという措置がとられた。
 まず金メダル争いの最大のライバルとなるアメリカが出場する「USカップ」には、JISSの情報収集・戦力分析クルーに日本ソフトボール協会のテクニカルスタッフ(選手強化本部会の情報収集・戦力分析班)を同行させ、派遣することを決定。アテネ・オリンピックのヨーロッパ・アフリカ大陸予選((6月23日~29日/イタリア・マチェラータ)、「カナダカップ」には宇津木妙子ヘッドコーチはじめチームスタッフが直接足を運び、情報収集と戦力分析に奔走した。

 オリンピックに出場するには、第1次予選となる世界選手権で4位までに入るか(ホスト国が4位までに入った場合は5位まで)、アメリカ大陸予選、ヨーロッパ・アフリカ大陸予選、アジア・オセアニア大陸予選を勝ち上がらなければならない。
 アテネ・オリンピックの場合には、2002年の「第10回世界選手権大会」が「第1次予選」となり、アメリカ、日本、チャイニーズ・タイペイ、中国の上位4チームが出場権を獲得。これにアメリカ大陸予選、ヨーロッパ・アフリカ大陸予選、アジア・オセアニア大陸予選の勝者とホスト国・ギリシャを加えた8チームで覇が競われることになる。

 アテネ・オリンピックのアジア・オセアニア大陸予選は、すでに3月に終了しており、オーストラリアがニュージーランドとのプレイオフに連勝して代表権を獲得。この予選から代表に復帰した日本でもおなじみのメラニー・ローチ(2001年~2011年、日本リーグ・ミキハウス、レオパレス21(ともに現在は廃部)、佐川急便(現・SGホールディングス)、ルネサスエレクトロニクス高崎(現・ビックカメラ高崎)でプレー)が、プレイオフ第一戦でノーヒット・ノーランを達成するなど、相変わらず健在であるとの情報を入手した。

 「USカップ」では、金メダル争いの「最大のライバル」アメリカの情報収集と戦力分析がメインであったが、すでにアテネ・オリンピックの出場権を手にしているチャイニーズ・タイペイとホスト国のギリシャ、7月に行われるアメリカ大陸予選で出場権獲得が有力視されるカナダが出場しており、それらの情報収集・戦力分析も併せて行った。ここでは長年、日本リーグ・豊田自動織機で活躍している(1993年~2008年、豊田自動織機に所属)のミッシェル・スミスの「後継者」としてキャット・オスターマン(2011年、日本リーグ・豊田自動織機でプレー)という「新鋭左腕」が出現したことも報告されていた。
 6月23日~29日、イタリア・マチェラータで開催されたヨーロッパ・アフリカ大陸予選では、イタリアが優勝。予選リーグを5戦全勝の1位で通過し、決勝トーナメントでもオランダ、チェコを撃破し、アテネ・オリンピックへの出場権を手にした。

 7月20日~27日、プエルトリコで実施されたアテネ・オリンピックアメリカ大陸予選では、やはりそのカナダがドミニカとのプレイオフを制し、3大会連続のオリンピック出場権獲得を果たし、これで出場8チームが出揃った。

 アテネ・オリンピックの出場チームが出揃い、その戦力分析作業を進める中で、宇津木妙子ヘッドコーチは一つの「新たな方針」を打ち出しつつあった。
 宇津木妙子ヘッドコーチの戦術は、「日本のお家芸」といわれたバント、ヒットエンドランなどの小技をあえて封印。相手のミスを待つようなソフトボールではなく、「世界の強豪」を相手に敢えて真っ向勝負を挑み、「打ち勝つ」という「攻撃型」のソフトボールであったが、その自らの「信念とこだわり」を捨て去る決意を固めていたのだ。
 2002年にISF(国際ソフトボール連盟/現・WBSC:世界野球ソフトボール連盟)ルールが改正され、ホームベースから外野フェンスの距離が約6mも延び、試合球も従来のミズノ100より飛距離が落ちるミズノ150(イエローボール)に変更された。
 こうなると、「一発で試合を決める」というゲームプランは立てにくくなり、実際、ルール改正後の2002年に開催された「第10回世界女子選手権大会」では、本塁打は10試合でわずか2本(ルール改正前の2000年のシドニー・オリンピックでは9試合で6本塁打)。「第14回アジア競技大会」に至っては6試合で本塁打0。この「現実」の前には、さすがの宇津木妙子ヘッドコーチも自らの「信念とこだわり」を捨て去るしかなかったのである。
 大量点はいらない。機動力と小技を駆使した攻めでアメリカから「1点」を先に取り、上野由岐子を中心とした投手力と「世界一」と評される守備力で守り切り、そのまま逃げ切る。この「もっとも現実的なゲームプラン」に路線変更。それに基づく選手選考を行い、それを実行するための練習を積み上げ、トコトン鍛え上げていく決意を固めた。
 また、イエローボールの導入と投球距離(ホームベースからピッチャープレートまでの距離)の変更が、特に「ライズピッチャー」に大きな影響を与えていた。従前の使用球に比べ、ライズが「浮かない」というのである。今まで「空振り」になっていたはずのボールが「ファウル」にされてしまう。「ファウル」になっていたはずのボールが打ち返されてしまう……。投球距離が約1m近く延長されたことで打者の「ボールの見極め」も容易になる等、ルール改正により状況は大きく変わっていた。

 SARSの影響による代替事業となった「第1次国内強化合宿」(6月17日~26日/北海道倶知安町)、「第2次国内強化合宿」(7月3日~11日/静岡県天城湯ヶ島町)でディフェンス面の強化に重点を置いた練習に取り組み、「第3次国内強化合宿」(7月16日~23日/埼玉県吹上町)では、男子の日本リーグの優勝争いの常連・ホンダエンジニアリング(現・Honda)を相手に練習試合を行う等、国際大会にこそ出場できなかったが、順調に強化スケジュールを消化していった。

 ようやく海外への渡航が許された7月31日~8月11日、「第1次海外強化合宿」(イタリア・ギリシャ遠征)を実施。この遠征で初めてヨーロッパの地を踏む選手も多く、アテネ・オリンピック「本番」を1年後に控え、現地の様子や雰囲気を直接肌で感じることができただけでも大きな意味があった。また、アテネ特有の40度を超える暑さや強風・粉塵対策の必要性を再認識。現地のデータが持ち帰られ、様々な分野から万全のサポート体制を敷くべく、急ピッチで用具開発が進められた。

 9月22日、全競技に先駆け、アテネ・オリンピックソフトボール競技の組み合わせが発表された。日本は8月14日のオープニングゲームでオーストラリアと対戦。以下、チャイニーズ・タイペイ、アメリカ、カナダ、ギリシャ、イタリア、中国の順で対戦。21日の予備日を一日挟んで、22日~23日に決勝トーナメントを行うという大会スケジュールが確定した。

 11月、SARSで延期されていた「2003 JAPAN CUP 国際女子ソフトボール大会」が終わると、すぐに「第2次海外強化合宿」(オーストラリア・タスマニア遠征)。オーストラリアは世代交代がうまくいかず、2002年の「第10回世界女子選手権大会」でのアテネ・オリンピック出場権獲得に失敗。結局、アジア・オセアニア大陸予選でニュージーランドとのプレイオフを制して出場権を獲得したが、それもメラニー・ローチをはじめ「ベテラン」を呼び戻してのものであった。
 しかし……1996年のアトランタ・オリンピック、1998年の「第9回世界女子選手権大会」、2000年のシドニー・オリンピックと3大会連続でアメリカに土をつけ、予選リーグ・決勝トーナメントを含めた5試合を戦って3勝2敗と勝ち越している唯一のチームがオーストラリアである。アトランタではリサ・フェルナンデス(1998年・1999年の2シーズン、日本リーグ・トヨタ自動車でプレー)に延長9回までパーフェクトに抑えられ、延長10回タイブレークに入って記録こそ途切れたものの(現在は延長に入るとすぐに8回からタイブレーク。当時のルールではタイブレークは延長10回からだった。また、タイブレークに入った場合は、自動的に二塁にランナーを置くことになるので「完全試合」の対象とはならないことがルール上規定されている)、初ヒットが逆転サヨナラのツーラン。1998年の「第9回世界女子選手権大会」では決勝トーナメントで一度はアメリカを破り、決勝に進出。シドニーでも「アトランタでの奇跡の逆転サヨナラ本塁打」を再現するかのように延長13回の死闘を演じ、同じくリサ・フェルナンデスに25三振を奪われながら、またしても奇跡的なツーランで勝利を飾っている。
 ベテラン主体で大きな上積みは期待できないかもしれないが、メラニー・ローチ、ターニャ・ハーディング(1996年~2000年、日本リーグ・ミキハウス(現在は廃部)、2006年・2007年・佐川急便(現・SGホールディングス)でプレー)らが揃う投手陣は強力で、打者も一発のある打者が多く、決して侮れない相手だ。しかもアテネでは大事な「初戦」でぶつかることが決まっている。シドニー以降、日本はオーストラリアにほとんど負けていないが、それだけに「苦手意識」をもってもらったまま眠らせておきたい相手だった。

 この「第2次海外強化合宿」(オーストラリア・タスマニア遠征)には、「第7回世界女子ジュニア選手権大会」で4度目の「世界一」となったメンバーから坂本直子、増山由梨の2人を含む21名を招集した。

 12月5日~17日、「第2次海外強化合宿」(オーストラリア・タスマニア遠征)を実施。シドニー・オリンピックの舞台となったブラックタウンを訪れ、地元のクラブチームと2試合を行い、タスマニアに移動。11日から「ホバート国際トライシリーズ」と銘打たれた大会に参加した。
 大会には、オーストラリア代表チーム、その代表に次ぐ力を有するAISと日本代表の3チームが参加。トリプルラウンドロビン(3回戦総当たり)の予選リーグを行い、最後に優勝決定戦を行う試合方式で大会が行われた。
 日本は、新たに招集された山田恵里の劇的なサヨナラ満塁本塁打で優勝を飾り、翌年に迫ったオリンピックイヤーに向け、弾みをつけた(後編へ続く)。

(公財)日本ソフトボール協会 広報
株式会社 日本体育社「JSAソフトボール」編集部 吉田 徹

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