2004年12月、「第8回アジア女子選手権大会」が「新チーム」の船出となった
圧倒的な強さで優勝を飾り、「第11回世界女子選手権大会」出場権獲得!
2005年7月、オリンピック競技「除外」の「悲報」を乗り越え、「第1回USAワールドカップ」優勝!
「宿敵」アメリカの「ホーム」に乗り込み、見事「優勝」を飾った!!
「2005 JAPAN CUP」でも「宿敵」アメリカと熱戦を展開
「ホーム」の熱い声援に応え、「JAPAN CUP」初優勝!
2006年「第11回世界女子選手権大会」では「エース」上野由岐子が獅子奮迅の活躍を見せたが……
「王者」アメリカの牙城を崩せず……世界選手権6連覇達成を許す
「最高の展開」に持ち込みながら……アメリカの「連覇」を止めることができなかった
北京オリンピックの出場権は手にしたが、「超難問の宿題」が残されてしまった
2004年秋、日本ソフトボール協会は「臨時理事会」を招集。アテネ・オリンピックで金メダル獲得を期待されながら銅メダルに終わった「日本代表」のヘッドコーチの選定に着手し、長年「男子ジュニア(U19)日本代表」「男子日本代表」のヘッドコーチとして「実績」(1981年「第1回世界男子ユース選手権大会(後のジュニア選手権大会)」優勝、1996年「第9回世界男子選手権大会」3位、2000年「第10回世界男子選手権大会」準優勝)を残してきた井川英福氏(当時:日本ソフトボール協会強化部長/トヨタ自動車)を選出。理事会終了後、記者会見を行い、正式に発表した。
日本ソフトボール協会・尾﨑正則専務理事は、「男子日本代表での輝かしい経歴を踏まえ、また、強化部長として女子の日本代表の強化合宿や海外遠征にも帯同する等、個々の選手やチーム事情に明るいことから、宇津木妙子ヘッドコーチ(現・日本ソフトボール協会副会長)の後任に推した。人間性と指導力に期待している」と、記者会見の席で就任に至るまでの経緯を説明。
これに伴い、日本代表をシドニー・オリンピックで銀メダル、アテネ・オリンピックで銅メダルに導いた宇津木妙子監督は契約期間満了をもって勇退することになった。
井川英福監督の任期は2年。2006年に開催される「第11回世界女子選手権大会」(中国・北京で開催)まで指揮を執り、オリンピック出場権獲得と同時に、次世代の指導者を育成し、バトンを渡すという役割を担うことになった。
井川英福新ヘッドコーチ就任直後、2006年に開催が予定されている「第11回世界女子選手権大会」の予選を兼ねた「第8回アジア女子選手権大会」に出場する代表選手17名を選出するため、「選手選考会」を実施。ここでは、従来の公募方式ではなく、日本ソフトボール協会選手強化本部会が、アテネ・オリンピック代表選手15名+予備員2名、U-23日本代表9名、日本リーグ成績優秀者5名の計31名を推薦(その内の22名が参加)するといった「新たな方式」で行われ、大会に派遣する代表選手17名が選出された。
「金メダルだけ」を期待される大きなプレッシャーの中、持てる力を十分に発揮できないまま銅メダルに終わったアテネ・オリンピック。2008年に開催される北京オリンピックで悲願の「金メダル獲得」を成し遂げることを「最大のテーマ」に掲げ、「新生JAPAN」が船出することになった。
アテネ・オリンピックから約半数の選手を入れ替え臨んだ「第8回アジア女子選手権大会(兼第11回世界女子選手権大会アジア地区予選)」(2004.12.12~18/フィリピン・マニラ)(第8回アジア女子選手権大会兼第11回世界女子選手権大会アジア地区予選出場メンバー・スタッフはこちら)」では、「予選リーグ・グループA」を5戦全勝の1位で通過し、決勝トーナメントでも初戦で「予選リーグ・グループB」1位の中国に7-0の6回コールド勝ちを収めると、決勝でもチャイニーズ・タイペイに5-0で圧勝。無敗のまま、「完全優勝」を飾り、2006年に中国・北京で開催される「第11回世界女子選手権大会」とカタール・ドーハで開催される「第15回アジア競技大会」の出場権を獲得した。
2006年の「第11回世界女子選手権大会」への出場権も獲得し、北京オリンピックに向けての「強化」をスタートさせたばかりの日本代表に「衝撃」が走った。
2005年7月8日、シンガポールで開催されたIOC(国際オリンピック委員会)で2012年のロンドン・オリンピック実施競技から野球、ソフトボールを除外する決定が下されたのである。そんな衝撃的な決定が下された直後の7月14日、日本代表はアメリカ・オクラホマシティで開催された「第1回USAワールドカップ」に出場。
この大会は、前回まで「USカップ」の名称でハワイ・ホノルルで開催されていたもので、この年から大会名称を「USAワールドカップ」に改称。ISF(国際ソフトボール連盟/現・WBSC:世界野球ソフトボール連盟)の本部が置かれているオクラホマシティに場所を移し、開催された。
大会には、アメリカ、オーストラリア、日本、中国、カナダの5カ国が参加。日本は、初戦の中国戦でよもやの逆転負けを喫し、アメリカには屈辱の5回コールド負けを喫する等、苦しい展開となったが、カナダ、オーストラリアを「直接対決」で叩き、2勝2敗の同率ながら予選リーグ2位の座を確保し、決勝進出を果たした。
決勝では、屈辱のコールド負けを喫した日本が奮起。3-1でアメリカに競り勝ち、「敵地」で見事な優勝を飾った。
「第1回USAワールドカップ」で宿敵・アメリカを下し、優勝を飾った日本代表はアメリカから帰国後、7月29日~31日に神奈川県横浜市で開催された「2005 JAPAN CUP」に出場。大会には、「世界のトップ4」と呼ばれるアメリカ、オーストラリア、日本、中国の4カ国が参加した。
日本は、シングルラウンドロビン(1回総当たり)方式で行われた予選リーグを3戦全勝の1位で通過。決勝でも「宿敵」アメリカを3-0で破る破竹の快進撃を見せ、理想的な試合展開で「第1回 USAワールドカップ」での優勝に続き、この「2005 JAPAN CUP」でも、見事初優勝を成し遂げた。
7月に開催された2つの国際大会で優勝を飾った日本代表は、8月3日・4日、宮城県・仙台市のシェルコムせんだいを会場に開催された「日米インターナショナルマッチ in 仙台」に出場。「絶好調」で大会を迎えたはずだったが、この大会では第1戦・第2戦と連敗。最終戦でエース・上野由岐子を先発に立て、アメリカを完封。1-0で勝利し、「有終の美」を飾った。
7月から続いたここまでの3大会では、エース・上野由岐子がマウンドに立てば、「アメリカにだって負けない」という確かな自信が感じられた。3つの国際大会で、アメリカとの対戦を4勝3敗と勝ち越し、この「自信」を手に入れたことが、もっとも大きな収穫であり、アメリカを意識し過ぎるあまり、「紙一重」の差を超えられず、あるいは「自滅」して1点差負けを繰り返してきた忌まわしき過去とは完全に訣別した感があった。
しかし……まだ世界選手権まで1年、北京オリンピックまで3年の時間を残している。この時期は、アテネ・オリンピックを一つの「区切り」としてとらえ、アメリカだけではなく、すべての国が選手やコーチングスタッフの入れ替え等も含め「試行錯誤」を繰り返している段階といえた。世界選手権、オリンピックといった「真剣勝負」の場となれば、また「別の顔」を見せ、襲いかかってくるはずである。
日本には「絶対的な切り札」上野由岐子がいる。しかし、今後はその上野由岐子を攻略するために各国が血眼になってデータを収集し、分析を繰り返し、研究を重ねてくる。上野由岐子だけに頼り切ったチームでは、「世界一」を狙うにはあまりにも心許ない。上野由岐子に続く投手の育成、走・攻・守すべての面でのレベルアップ等、今後の強化に向けてこの時点ではまだまだやるべきことが数多く残されていた。
「世界一」になる力は間違いなく有している。ただ、この年の勝利は決してそれを保証するものではなく、「本当の勝負」はまだこれからであった。
年が明けた2月、トリノ・オリンピックに合わせてIOC総会が開催された。総会では、2012年ロンドン・オリンピックの実施競技から「除外」されたソフトボールと野球について「復帰」が検討されたが、両競技ともに認められず、ロンドン・オリンピックでは実施されないことが決まった。
日本ソフトボール協会からは、JOC(日本オリンピック委員会)の理事であり、ISF副会長でもある尾﨑正則専務理事が現地に乗り込み、最後の最後まで「逆転復活」を信じ、懸命の働きかけを行ったが、残念ながら再度投票に持ち込むことはできなかった。
これでオリンピック競技「復活」の可能性は2016年のオリンピック以降……。ソフトボール関係者にとっては、あまりにも大きく深い痛手を負う決定だった。
同年3月、日本代表は沖縄県北谷町で「第4次国内強化合宿」を実施し、矢継ぎ早に「第1次海外強化合宿」へと出発。一路オーストラリア・シドニーに向かい、オーストラリア代表とのテストマッチを中心に強化に励んだ。
日本リーグ前半戦による強化事業の中断を挟み、7月13日~17日、アメリカ・オクラホマシティにおいて開催された「第2回USAワールドカップ」に出場。大会には、日本、アメリカ、オーストラリア、カナダ、中国、イギリスの6チームが参加。文字通り「世界選手権の前哨戦」といった大会となった。
昨年の同大会で「宿敵」アメリカを破って優勝した日本は「連覇」を狙って大会に臨んだが、予選リーグから予想以上の苦戦を強いられた。
初戦はカナダに2-1で競り勝ち、第2戦は中国を相手に初回4失点。何とか追いついて延長9回6-4で振り切った。第3戦のイギリス戦も先手を取りながら投手陣が打ち込まれ、4回までに6失点。終盤の猛攻で7-6の逆転勝ちを収めたが、苦しい試合が続く。第4戦のオーストラリア戦も3回に3点を先制され、またも追いかける試合展開となったが、これも終盤逆転。最後はエース・上野由岐子を投入して逃げ切り、予選リーグ最終戦を待たずに2位以上が確定。決勝進出を決めた。
しかし、予選リーグ最終戦のアメリカ戦は0-11の5回コールド負け。決勝でも2-5で敗れ、予選リーグのコールド負けから優勝を果たした前回大会の再現はならず、連覇を逃した。
8月22日、「第11回世界女子選手権大会」を直前に控え、東京・品川プリンスホテルにおいて、第11回世界女子選手権大会に出場する日本代表選手団の結団式・壮行式が盛大に挙行された。
「第11回世界女子選手権大会」は2008年に開催される北京オリンピックの「第1次予選」を兼ねており、上位4チーム(オリンピックのホスト国である中国が4位以内に入った場合には5位まで)にオリンピック出場権が与えられることになる。
この大会でオリンピック出場権獲得に成功すれば、日本勢の「オリンピック出場権獲得第1号」となるだけに、会場にはJOC・竹田恆和会長ら幹部も駆けつける等、期待の大きさを感じさせた。
日本選手団の団長を務めた三宅豊選手強化本部長(現・日本ソフトボール協会会長)は、「オリンピック出場権獲得はもちろんだが、優勝する意気込みで臨む」と挨拶。井川英福ヘッドコーチも、「決勝でアメリカを倒して優勝したい。一戦一戦、日頃の練習の成果を発揮し、ここまで支えて下さった皆さんの思いを胸に、精一杯戦いたい」と大会に臨む決意を語った。
多くの人の大きな期待と熱い思いに後押しされ、日本選手団は「決戦の地」北京へ乗り込んだ。
8月27日、中国・北京(豊台ソフトボール場)で「第11回世界女子選手権大会」が開幕(第11回世界女子選手権大会出場メンバー・スタッフはこちら)。大会には、世界各地区の予選を勝ち抜いた強豪16チームが参加。その16チームを2つのグループ(POOL・A、POOL・B)に分け、シングルラウンドロビン(1回総当たり)方式の予選リーグを実施。POOL・A、POOL・Bの上位4チームがダブルページシステム(敗者復活戦を含むトーナメント)で行われる決勝トーナメントに進出。「世界一」の座をかけた熱い戦いが展開された。
POOL・Aには、大会5連覇を継続中、オリンピックでも3大会連続の金メダル獲得と「世界一」の座に君臨し続けるアメリカを筆頭に、カナダ、イタリア、ニュージーランド、南アフリカ、北朝鮮、イギリス、そしてホスト国・中国を加えた8チームが振り分けられ、POOL・Bにはオーストラリア、日本、チャイニーズ・タイペイ、ギリシャ、ベネズエラ、オランダ、ボツワナ、コロンビアの8チームが振り分けられた。
大会のメイン・スタジアムとなった豊台ソフトボール場は、この大会に合わせて新設され、北京オリンピックの試合会場となることも決まっていた。
大会は、さながら「北京オリンピックのリハーサル」といった形で運営されており、オリンピックのために新設されたすばらしいスタジアムを舞台に、いつになく華やかな雰囲気の中で開幕を迎えた。
日本は初戦、チャイニーズ・タイペイと対戦。3回裏、山田恵里のタイムリーで1点を先制すると、終盤6回裏にもチームを引っ張る「キャプテン」伊藤幸子がツーランホームラン。貴重な追加点を挙げ、3点差にリードを広げた。
守っては、先発・上野由岐子が「貫禄」のピッチング。被安打2・奪三振12の快投でチャイニーズ・タイペイ打線を完全に抑え込み、3-0の完封。初戦を勝利で飾った。
第2戦はベネズエラと対戦。初回に馬渕智子のタイムリーで先取点を挙げると、その後も小刻みに得点を加え、先発・増淵まり子が4回表に1点を失ったものの、5-1とリードして迎えた6回裏、先制タイムリーを放った馬渕智子が「トドメ」のツーランを右中間スタンドへ突き刺し、ダメ押し。最後は髙山樹里が締め、7-1の大差で2勝目を挙げた。
第3戦のギリシャ戦は、山田恵里、伊藤幸子のタイムリー等で初回にいきなり3点を先制し、「楽勝ムード」が漂った。しかし、その後は毎回のように走者は出すものの、追加点を奪えず……。それでも「エース」上野由岐子が5回二死まで一人の走者も許さぬ「パーフェクトピッチング」を見せていただけに、点差以上に安心して見ていられる試合展開ではあった。それが……6回裏、事態は急変する。この回から代わった後藤真理子が大炎上。先頭打者こそ三振に斬って取ったものの、連打と自らのエラーで満塁のピンチを招き、タイムリーを浴び、1点差に……。慌てて「エース」上野由岐子を再登板させる「緊急事態」となったが、ここは上野由岐子が「さすが」のピッチングを見せ、追加点を許さず、ピンチを脱すると、最終回も簡単に三者凡退に抑え、3-2で逃げ切り。勝ったとはいえ、初回にあっさり3点を先制したときには予想もしなかったような試合展開となってしまった。
第4戦のオランダ戦は、山田恵里の本塁打で初回に先手を取ると、3回裏には4本の長短打を集中し、3点を追加。続く4回裏には、伊藤幸子の今大会第2号となるツーランホームランを含む長短6安打で大量6点を奪い、10-0の5回コールド勝ちを収めた。
第5戦のボツワナ戦も17安打・16得点と打線が爆発! 4回コールドで大勝し、5勝目を挙げた。
予選リーグ第6戦は、オーストラリアと予選リーグ「POOL・B」1位通過をかけ、「全勝対決」。オーストラリアは「ベテラン」メラニー・ローチ(2001年~2011年、日本リーグ・ミキハウス、レオパレス21(ともに現在は廃部)、佐川急便(現・SGホールディングス)、ルネサスエレクトロニクス高崎(現・ビックカメラ高崎)でプレー)、日本はもちろん「エース」上野由岐子を先発に立て、試合がはじまった。
試合は両投手の投げ合いとなり、0-0のまま、迎えた最終回、オーストラリアはステーシー・ポーター(2008年から現在まで日本リーグ・SGホールディングスでプレー)の右中間二塁打を足掛かりに、無死二・三塁と攻め立てたが、ここからが「世界のエース」上野由岐子の真骨頂。後続をショートゴロ、三振、セカンドライナーに打ち取り、「絶体絶命」のピンチを脱し、延長タイブレークに突入した。
延長8回に1点ずつを取り合い、迎えた9回裏、日本は伊藤幸子の劇的なサヨナラ安打で粘るオーストラリアを振り切り、6戦全勝。最終戦で対戦予定だったコロンビアが大会の出場をキャンセルしたため、「不戦勝」となり、7戦全勝の「POOL・B」1位で決勝トーナメント進出を決めた。
決勝トーナメント初戦、予選リーグ「POOL・B」1位の日本は、「POOL・A」2位の中国と対戦。「ホスト国」とあってスタンドは中国の応援一色。「完全アウェー」での対戦となった。
日本の先発・上野由岐子は相変わらずの安定したピッチングを見せ、5回まで一人の走者も許さぬ「パーフェクトピッチング」。一方、日本打線も得点を挙げることができず、「エース」の好投に報いることができないまま、試合は延長タイブレークにもつれ込んだ。
日本は延長8回表、相手守備の乱れから待望の先取点を挙げると、その裏の中国の必死の反撃を上野由岐子が抑え、1-0の完封。すべての競技団体に先駆け、「第1号」で北京オリンピックの出場権を獲得した。
ここまで「全勝」で北京オリンピックの出場権を獲得した日本は、同じくここまで「全勝」のアメリカと決勝進出をかけ、激突。世界選手権5連覇を継続中、オリンピックも3大会連続の金メダルと、長く「世界の王座」に君臨し続けている「最強の王者」を相手に、日本が果敢に戦いを挑んだ。
日本が「必勝」を期して「エース」上野由岐子を先発に立てたのに対し、アメリカは「エース」キャット・オスターマン(2011年、日本リーグ・豊田自動織機でプレー)ではなく、右のジェニー・フィンチを先発に起用。両チーム無得点で迎えた4回裏、藤本索子の負傷欠場で急遽、「緊急招集」された上西晶が死球で出塁すると、続く内藤恵美は送りバントを警戒する相手守備陣を嘲笑うかのように、バントの構えで十分に引きつけ、一転強打に切り替えるバスター。鮮やかに三遊間を抜き、無死一・二塁。次打者の送りバントで一死二・三塁とした後、馬渕智子がヒットエンドランを決め、待望の先取点。1点を先制し、なお二死三塁のチャンスが続き、伊藤幸子が「得意」の右打ちでライト前に運び、この回2点目。続く5回裏にも、廣瀬芽の二塁打から追加点のチャンスをつかみ、狩野亜由美の三遊間へのタイムリーで貴重な1点を追加。3点差にリードを広げた。
守っては、「エース」上野由岐子が5回までわずか1安打の力投を見せ、疲れの見えた6回表に不運な当たりから1点を失いはしたが、バックの好守にも助けられ、見事な完投。3-1で「最強の王者」を倒し、一足先に決勝進出を決めた。
日本が待ち受ける格好となった決勝は、「敗者復活戦」に回り、予選リーグ「POOL・B」2位から勝ち上がってきたオーストラリアの「挑戦」を5-1で退けたアメリカと再戦。この試合ではオーストラリア戦に続くダブルヘッダー「連投」となったアメリカの「エース」キャット・オスターマンが「目の前でボールが消える」と形容される、切れ味鋭いライズ、ドロップを駆使して日本打線を翻弄。日本も「エース」上野由岐子が力投し、5回までアメリカ打線を無得点に抑えていたが、6回表、一死からナターシャ・ワトリー(2009年~2016年、日本リーグ・トヨタ自動車でプレー)がセーフティーバントで揺さぶりをかけ、出塁すると、「俊足」の走者を出し、「ストレート主体」となった配球を読み切られ、ジェシカ・メンドーサがライトスタンドに「弾丸ライナー」で突き刺す先制のツーランホームラン。この「一発」で気落ちした上野由岐子から「主砲」クリストル・ブストスもレフトスタンド中段まで運ぶ「特大」のソロホームランを放ち、3点目。2本の本塁打を浴びせ、日本の「切り札」を攻略。「王者」の底力を見せつけた。
頼みの打線も最後までキャット・オスターマンを攻略できず、1安打・1四球で14三振を喫しては「打つ手」がなかった。
「世界一」になるには「最高」の展開だった。アメリカより1試合少なく予選リーグを戦えた上に、一度はアメリカに勝って「決勝」で待ち受け、相手は酷暑の中のダブルヘッダー、「エース」が2試合連投せざるを得ない、という願ってもない展開に持ち込むことができた。ただ……それでも勝てなかった。
世界選手権6連覇、オリンピック3大会連続の金メダル、「史上最高にして最強のチーム」アメリカを相手に勝つ術はあるのか……。2年後のオリンピックへ向け、「答えだけが書き込まれた答案用紙」を配られたような気分だった。日本が金メダルを手にするためには、このアメリカに勝たなければならない。「打倒・アメリカ」を果たさぬ限りは日本の金メダルはない。その「答え」だけは明確に見えているのに……そこに至る「方程式」や「証明」の方法を見つけることができず、あとは「白紙」の答案用紙の前で、ただただ時間ばかりが過ぎていき、焦りうろたえる「受験生」のような気分だった(中編へ続く)。
(公財)日本ソフトボール協会 広報
株式会社 日本体育社「JSAソフトボール」編集部 吉田 徹
No. | 守備 | 氏名 | 所属 | 背番号 |
---|---|---|---|---|
1 | 投手 | 上野由岐子 | 日立&ルネサス高崎 | 17 |
2 | 〃 | 髙山樹里 | 豊田自動織機 | 18 |
3 | 〃 | 坂本直子 | 日立&ルネサス高崎 | 12 |
4 | 〃 | 遠藤有子 | 日立ソフトウェア | 21 |
5 | 捕手 | 乾絵美 | 日立&ルネサス高崎 | 23 |
6 | 〃 | 鈴木由香 | 日立ソフトウェア | 10 |
7 | 内野手 | 内藤恵美 | 豊田自動織機 | 6 |
8 | 〃 | 井上絵里奈 | レオパレス21 | 26 |
9 | 〃 | 西山麗 | 日立ソフトウェア | 3 |
10 | 〃 | 伊藤幸子 | トヨタ自動車 | 10 |
11 | 〃 | 廣瀬芽 | 太陽誘電 | 8 |
12 | 〃 | 藤本索子 | レオパレス21 | 7 |
13 | 外野手 | 山田恵里 | 日立ソフトウェア | 11 |
14 | 〃 | 田中幹子 | 豊田自動織機 | 13 |
15 | 〃 | 狩野亜由美 | 豊田自動織機 | 5 |
16 | 〃 | 馬渕智子 | 日立ソフトウェア | 25 |
17 | 〃 | 増山由梨 | デンソー | 9 |
※氏名、所属は大会出場当時のもの
No. | 役職 | 氏名 | 所属 |
---|---|---|---|
1 | 団長 | 甲佐清久 | 日本ソフトボール協会副会長 |
2 | 強化担当 | 三宅豊 | 日本ソフトボール協会選手強化本部長 |
3 | ヘッドコーチ | 井川英福 | トヨタ自動車 |
4 | コーチ | 田中大鉄 | 豊田自動織機 |
5 | トレーナー | 鈴木勝 | グローバルスポーツ(株) |
6 | トレーナー | 小林準一 | 日本ソフトボール協会 |
7 | 総務 | 藤井まり子 | 日本ソフトボール協会事務局 |
※氏名、所属は大会出場当時のもの
No. | 守備 | 氏名 | 所属 | 背番号 |
---|---|---|---|---|
1 | 投手 | 上野由岐子 | 日立&ルネサス高崎 | 17 |
2 | 〃 | 髙山樹里 | 豊田自動織機 | 18 |
3 | 〃 | 後藤真理子 | 太陽誘電 | 12 |
4 | 〃 | 遠藤有子 | 日立ソフトウェア | 21 |
5 | 〃 | 増淵まり子 | デンソー | 20 |
6 | 捕手 | 乾絵美 | 日立&ルネサス高崎 | 23 |
7 | 〃 | 鈴木由香 | 日立ソフトウェア | 22 |
8 | 内野手 | 内藤恵美 | 豊田自動織機 | 6 |
9 | 〃 | 上西晶 | 太陽誘電 | 15 |
10 | 〃 | 西山麗 | 日立ソフトウェア | 3 |
11 | 〃 | 伊藤幸子 | トヨタ自動車 | 10 |
12 | 〃 | 廣瀬芽 | 太陽誘電 | 8 |
13 | 〃 | 三科真澄 | 日立&ルネサス高崎 | 4 |
14 | 外野手 | 山田恵里 | 日立ソフトウェア | 11 |
15 | 〃 | 田中幹子 | 豊田自動織機 | 13 |
16 | 〃 | 狩野亜由美 | 豊田自動織機 | 5 |
17 | 〃 | 馬渕智子 | 日立ソフトウェア | 25 |
※氏名、所属は大会出場当時のもの
No. | 役職 | 氏名 | 所属 |
---|---|---|---|
1 | 団長 | 三宅豊 | 日本ソフトボール協会選手強化本部長 |
2 | ヘッドコーチ | 井川英福 | トヨタ自動車 |
3 | コーチ | 斎藤春香 | 日立ソフトウェア |
4 | ドクター | 輿水健治 | 日本ソフトボール協会医事委員長 |
5 | ドクター | 山下義則 | 日本ソフトボール協会医副事委員長 |
6 | トレーナー | 大石益代 | 日本ソフトボール協会 |
7 | トレーナー | 鈴木勝 | 日本ソフトボール協会 |
8 | マネージャー | 河北恵 | デンソー |
9 | 総務 | 横田博之 | 日本ソフトボール協会事務局長 |
10 | 総務 | 藤井まり子 | 日本ソフトボール協会事務局 |
※氏名、所属は大会出場当時のもの